過去のメッセージ
Aspiration のための Academic English for Chemistry
山内 薫
東京大学大学院理学系研究科化学専攻の修士課程の業績報告会が昨日はじまった。司会の学生が英語で発表者を紹介すると、発表者は、よどみの無い英語で、プレゼンテーションを始めた。プレゼンテーションのマテリアルもすべて英語表記となっている。これは、化学専攻の修士課程業績発表会では、ごく普通の光景である。
化学専攻では、年度末の修士課程業績報告会において、学生が発表を英語で行うことを奨励しています。発表後の質疑応答をすべて英語でこなす事が難しい場合は、日本語を補足的に使っても良いことにしていますが、発表に関して言えば、多くの学生が、大変上手に英語で発表をしていました。発表のパワーポイントの画像を見ないで、発表者の英語を聞いているだけでも、何を話しているか分かるレベルの、立派な英語の発表が数多くありました。中には、質疑応答も英語で不自由なくできる学生も見受けられました。彼らの英語発表能力は、たいしたものであると感心しています。もしかしたら、質問をされる先生方の英語よりも、学生の英語のレベルの方が上であると思える場合もあったくらいです。
大学院学生の学術発表の際の英語のレベルが、これほどまでに向上していることを、私は大変嬉しく思っています。われわれ化学専攻の、国際化に向けた長年にわたる積極的な取り組みが、徐々にしっかりとした形となって現れてきたことを実感しています。その取り組みの中で、最も効果があったのは、Academic English for Chemistry であると思います。
我々が理系の大学院学生のために英語教育が必要であると考え、化学専攻の博士課程1年の大学院生のために、Academic English for Chemistryを開講したのは、今から10年も前の2002年のことになります。その後、2008年からは、修士課程1年の大学院生のために、Basic Academic English for Chemistryを新たに開講しました。修士課程の学生たちは、このBAEC教育プログラムにおいて、英語を専門とするネイティブスピーカーの先生方の熱心な指導を受けてきています。それが学生の皆さんの英語力の向上のために、如何に役立ってきたかを、私は、今行われている修士課程の業績報告会で、目の当たりにしました。
BAECの授業を学生が受講していることを踏まえ、化学専攻では2010年から、すべての大学院講義を英語で行うことにいたしました。そして、講義をご担当される化学専攻の先生方のご協力のおかげで、この1年間、滞りなくすべての講義が英語によって行われました。私も講義を行いましたが、その際、大学院生たちに、化学専攻での大学院講義の英語化の取り組みについて感想を聞きました。学生からは、「英語にしてもらった方が、進み方がゆっくりとなり、講義の内容が理解しやすくて助かる。」、「大学院学生のためというよりは、先生方の faculty development として役立っているのではないか。」という、この英語化を、ポジティブに評価してくれている感想があった一方、「先生方から雑談を聞けなくなったのは残念である。」という声も寄せられました。これは、教員側も、自らの英語力を向上させるべく、さらに努力と研鑽を積むことが必要であることを示しています。
学生からは、また、「テクニカルタームについては、英語だけでなく日本語での表現も併記して欲しい。」という要望も寄せられました。現時点では、我々が授業をするとき、バイリンガル的に、日本語も適宜使うことが授業の効果をより高めると考えることができます。しかし、わざわざ日本語に訳さずとも、テクニカルタームもすべて英語で進めるという方向が、やはり望ましいように思います。海外に出かけて行って、あるいは国際会議において、日本語のテクニカルタームを使って議論する訳には行かないという現実があり、われわれが教育し世の中に送り出す学生たちは、そのような環境にいやおうなく晒されることになるからです。
我々は、自然科学の分野、あるいは、広く科学技術の分野において第一線で活躍する人材を育成することを目指していますが、その人材の活躍の場は、必然的に国際的なものとなります。したがって、我々は、コミュニケーションに役立つ道具としての英語を、学生に身につけさせなければなりません。そのためには、大学院からでは、少し遅すぎるかも知れないのです。我々は、学部の講義についても英語を取り入れてはどうかと検討をはじめています。
私は、自分自身の講義で、その実施の可能性を探るための試みをしています。私は、駒場の4学期(大学2年生の冬学期)に、理学部進学内定者(主に、化学科に進学する学生と、物理学科に進学する学生)向けに量子化学Tという講義をしています。その際、配布するプリントはすべて英語で作成しています。そして、板書についても、すべて英語にしています。ただし、講義の言語は日本語です。授業評価の際の学生からの感想には、「駒場の4学期には英語の必修の授業が無いので、英語の勉強もできて良かった。」というポジティブな評価もありましたが、「英語だけのプリントはつらい。」、「やっぱり日本語が良い。」という、英語嫌い気味の感想もありました。
私は、化学科3年の学生への講義においても、同様に、配布プリントと板書を英語にしています。3年生になると、専門を深めるときに英語が必要であるということをより強く意識するようになるためか、講義の英語化については、積極的に評価してくれています。将来、講義も英語で行うこともありそうだという雑談を私がしたこともあり、授業評価の際には、「プリントが英語なのは全く問題が無い。」、「講義を英語で行うことも、徐々に行えば問題無いのではないか。」、「教員が英語で講義できるのであれば、それで構わない。」というコメントが寄せられました。
化学教室の研究室の多くでは、研究室セミナーを英語で行っています。私の研究室には、外国人の特任教員やポスドクが居ますし、海外からの研究者の訪問もしばしばですので、セミナーは必然的に英語行うことに成ります。化学専攻では、学部4年生の初めから、卒業研究がはじまり、研究室に配属されます。したがって卒業研究の学生も、研究室セミナーにも出席するようになります。初めのうちは、英語での発表や議論に戸惑う学生もいますが、1年も経てば、ごく普通に英語の発表を聞き、英語で質問し、そして、英語で自分の発表ができるようになります。環境さえ整えれば、学生の皆さんにとっては、学部および大学院教育が英語化されても、それはそれ程大変なことでは無いらしい、ということが分かってきました。
今年1月のはじめに、Japan Times 紙に、Japan far behind in global language of business と題する記事が載っていました。最近日本の学生は海外に出たがらないので困ったものだ、という論調で、統計資料とともに説得力のある内容でしたが、記事の最後の方に、"The biggest hurdle facing Japanese youth today is low aspirations. Growing up in a relatively wealth country with little competitive pressure due to the low fertility rate, many Japanese youth tend to think things will somehow work out and don't push themselves much." という専門家の意見を紹介した部分がありました。
日本から米国に海外留学をする学生の数は、1997年に50,000 人近くでしたが、2009年には、その半分の25,000 人程度に落ち込んでいます。それに対して、1997年に、日本とほぼ同数であった中国は、2009年には130,000 人に達する勢いで、その差は顕著です。確かに、その専門家の御指摘の通り、日本の若者たちの中には、「経済的にはそれほど困らないので、どうにかなるから、特にがんばらなくて良いのだ。」と思っている人もいるには違い無いのですが、それだけではないように思います。留学にせよ出張にせよ、海外に出かけていって活躍するには、言葉のバリヤーの問題を解決しなければなりません。そのバリヤーのために、海外に出かけて活躍しようという野心的な気持ちが出てこなくなってしまうこともあるように思います。「母国語で意思が通じないような場所に行きたくない。」と思うのは理解できることです。しかし、その心理のために、aspirations が無いとまで思われてしまっては可哀相です。
我々化学専攻の教員は、皆、化学科の学生が、そして、大学院化学専攻の学生が、aspirations を持ち続け、国際的な場で活躍して行って欲しいと、そして、道具としての英語を、その大志を実現させるために使って欲しいと願っています。我々は、そのために、AECとBAECを、より充実させていくとともに、学部教育においても英語の積極的な導入を進めていきたいと考えています。
本年度(平成22年度)は、Timothy Wright 先生(大妻女子大学)をリーダーとする、総勢4名の英語講師の先生方にAEC および BAECの授業をご担当いただきました。Timothy Wright 先生、David Taylor 先生(東京大学)、Evelyn Reinbold 先生(文教大学)、Patrick McGuire 先生(聖徳大学)のご指導とご協力に感謝します。
我々の英語教育プログラムが、そして、我々の教育研究活動が益々発展するように、今年もまた、聳え立つ一対のヒマラヤスギに宿る化学教室の土地の神様に、お祈りをささげて、この文章を終えることにしたいと思います。
(平成23年2月15日)