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過去のメッセージ

挑戦を励ますというフィロソフィー
− 松尾学術振興財団の創立20周年に寄せて

東京大学大学院理学系研究科
山内 薫

私が、松尾学術振興財団から助成をいただいたのは、平成2年度の終わり、平成3年3月頃であったかと記憶していますが、それは、私が平成2年8月に助教授に昇任し、自分の研究グループを持つことができるようになって間もないことでした。今から数えると、すでに18年近い年月が流れているのだと思うと、時の経過の速さに驚かされます。当時、東京大学教養学部基礎科学科第一(現在の東京大学大学院総合文化研究科広域化学専攻相関基礎科学系)に所属していた私は、駒場キャンパスの持つ一種の長閑さと自由な雰囲気、そして、その学際的な刺激の下、充実感を持って毎日を過ごしていました。

その頃、分子が高い振動励起状態、あるいは、高い電子励起状態に励起されたときの振る舞いがどのようなものであるかということに関心を持って研究をしていた私は、原子や分子が集合体を形成するとき、その振動および電子励起状態は、単独の原子や分子とどのように異なるのか、という問題に取り組もうとしていました。当時の教養学部には、研究室を持ったばかりの若手の教官を盛り立てようというスタートアップ資金の仕組みがあり、基礎科学科第一の先生方のご支援の下、大変幸運なことに、私は飛行時間型の質量分析装置のための検出器とイオンオプティクスの部分を購入することができました。しかし、その装置を真空にするための真空ポンプを導入するめどが立っていませんでしたし、計測のための機器も足りず、どうにかしなければと思うものの名案はなく、科学研究費補助金の申請をもっと魅力的に書くにはどうしたらよいか、などと日々悩んでいました。

丁度そのようなときに、松尾学術振興財団から、「原子クラスターの高励起リドベルグ状態における振電ダイナミクスの研究」というタイトルの下、研究助成金をいただくことができたのです。このことが、私にとって、如何にありがたいことであったかはご想像いただけるのではないかと思います。今でもその時の嬉しさを、最近のことのように思い起こします。これで自分の研究をもっと進めることができるという、喜びもさることながら、基礎学術研究の大切さを理解し若手研究者を育てていくという発想の下、研究助成事業をしておられる財団に、自分の研究の方向を評価していただいたということが、私自身にとって大いに励みになりました。いただいた助成金を、私がどのように使ったのかを知りたいと思ってファイルキャビネットを調べてみましたら、断片的ながら記録が見つかり、それに拠ると、ボックスカー積分器、油拡散ポンプ、サイラトロンの購入に当てており、平成4年の末には、すべて使い切っていたことが分かりました。これらの投資は、その後の私の研究成果に、直接結びつくこととなりました。

近年は、科学研究費補助金による研究助成の規模も大きくなり、若手を対象とした科学研究費補助金も大型のものが用意されるようになりました。また、文部科学省以外の省庁からの競争的研究資金もあり、松尾学術振興財団が創立された20年前と比べれば、若手研究者にとっては、はるかに研究費を獲得しやすい状況になっているように思います。もしかすると、松尾学術振興財団が、その助成対象者の1人当たりに支援しておられる数百万円程度以下の助成は、昨今の若手研究者にとっては、それほど魅力的なものでは無くなっているのかも知れません。このような時代に、我々が、次の世代の基礎学術研究を荷いつつある若い研究者の方々に、どのようなメッセージを送るかは、実は、極めて重要な点であると思います。

理学という意味において、基礎的な研究というものは、私の理解では、自然界の仕組みがどのようになっているのか、また、そのようになっている仕掛け、あるいはメカニズムはどのようなものであるのかを解き明かそうとする営みです。したがって、未知、すなわち、良くわからないことに取り組むのですから、研究の成果がどのようになるかは、極言すれば、その研究にとりかかった時点では分からない、ということが本当です。したがって、研究費獲得のためのプロポーザルを書く際に、「何をどこまで明らかにするのか、それを、具体的に書くように」などという文言がありますが、開拓的な研究であればある程、そこに書いた通りにはならなくなる確率が高くなるように思います。

また、研究費の種類によっては、毎年の事業計画を書かせ、その事業どおりに進んでいないと、その理由を説明させたり、理由書を書かせたりするものさえあります。確実に研究を進めるということは、公的な資金を使って研究を進める以上、当然のことですが、一方で、「計画通りに研究を進め、高い評価を得る」とか「中間評価でよい評価を得るために、計画通りに研究を進める」などといったことを、何の疑問も感ぜずに、その通りであると思って受け入れる研究者の数が、基礎学術分野でも、増加しているのではないかと感じています。

確かに、もし十分な資金があれば、その計画のために最適な機器をともかく購入し、優秀な人材を雇い、実験をして確実にデータを出すことによって、計画通りにものを運ぶことが容易になるのは当然ですが、そのような確実な方向だけではなく、成果が得られるかどうか分からないが、挑戦的なテーマにこそ取り掛る、という本来の理学の方向も忘れては成らないように思います。その冒険のためにこそ、研究資金の本来の姿があるように思えてなりません。その際、「成果が出ようが出まいが、資金を提供した側は、その挑戦に対して支援をしたこと自体で十分であると考え、研究者は、それに応え、スケールのより大きな未知に挑戦する」という文化を、資金を提供する側と資金を受ける側が、共に創っていくことが大切であると思います。

松尾学術振興財団の理事長の宅間宏先生とは、助成金の授与式以来、これまで、たびたびお会いする機会がありましたが、私が強光子場下での分子のダイナミクスに関する研究を始めてからそれ程時間が経っていない頃、それは今から10年程前のことですが、我々の研究の価値を高く評価して下さいまして、国際会議の場などの機会に、私を励まして下さいました。当時私は、「強い光を分子に照射しても単に分子が壊れるだけで、いったい何になるのだ」という、いささか非難めいた批評に晒され続けていましたので、宅間先生のお励ましは、本当にありがたいものでした。その後、宅間先生には、特定領域研究「強レーザー光子場における分子制御」ではアドバイザリーメンバーのお1人として、領域メンバーの研究展開に多くの貴重なアドバイスをいただくことになりました。また、最近は、私どもが見出しました強光子場中での分子内の超高速水素マイグレーションの問題について、その重要性を指摘してくださるなど、私どもの研究グループの挑戦を今も励ましてくださっています。

振り返ってみますと、私自身、これまで、宅間先生のご助言やコメントに、どれだけエネルギーを頂いたか分かりません。宅間先生のそのような後進を励ますと言うフィロソフィーこそが、松尾学術振興財団の研究助成のバックボーンとなっているように思います。その心意気に応えることが、助成を受けた者に期待されていることであると思います。さて、それにはどうしたらよいのでしょうか?それにはさまざまな形があるのだろうと思いますが、私が考えますには、第一には、どのように評価されるかなどというつまらない考えから脱却し、未知への果敢な挑戦を続けること、そして、第二には、より若い世代に、そのような挑戦をする研究者が居たら、その良い面を見て励ましてあげることであると思います。

宅間先生と松尾学術振興財団のフィロソフィーが、学術のコミュニティーに、そして、社会により広く浸透し、「基礎学術研究と研究助成」という文化が、より成熟したものとなることを願っています。

(平成20年2月15日)