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メッセージ

フロンティアへの出帆

山内 薫

今から40年程前の事になる。私は東京大学本郷キャンパス化学旧館2階の朽津耕三先生の教授室を訪ねて、「先程、先生がセミナーでご紹介されたスペクトルの解析を是非やらせてください。」と、朽津先生に私の希望をお伝えした。それは、私が修士課程に入って1年程経ってからのことだった。この一言がきっかけとなって、私は東京大学教養学部基礎科学科第一の土屋荘次教授の研究室に出入りするようになった。そして、その3年後に、土屋先生の研究室の助手に採用していただいて、研究者の仲間入りをすることとなった。

私は、学部4年の時に構造化学という分野から研究に入った。分子の中で、化学結合で結びついている原子と原子の間の距離は何オングストロームか、二つの化学結合の成す角は何度か、というように分子の幾何学的構造を決定することが構造化学の基本テーマである。構造決定のための強力な実験手法は、気体電子回折法とマイクロ波分光法である。

目に見えない、非常に小さな分子がどのような形をしているのかを知ることは、化学にとって基本中の基本である。加速した電子が分子に散乱されると電子が波として振る舞うために、散乱した電子の散乱角の分布には干渉模様が観測され、その回折パターンを解析すると分子の構造が決まる。また、分子にマイクロ波を照射すると分子はマイクロ波を吸収し回転運動が励起される。そして、吸収したマイクロ波の周波数を測定すると分子の慣性モーメントが分かるため、2原子分子の場合には結合距離が決まり、多原子分子の場合にも分子のサイズに関する精密な情報が得られる。

この気体電子回折法とマイクロ波分光法によって分子構造が精密に決定できることに、私は感銘をうけた。そして、これらの手法を学ぶ過程で私は、分子の世界を理解するためには、量子力学を学ぶことが如何に大切かを学んだ。調和振動子の量子力学は、分子の振動運動を理解するために、角運動量の量子力学は、分子の回転運動を理解するために、そして、散乱の量子力学は、分子による電子回折を理解するために必須となる。

気体電子回折とマイクロ波分光の実験とデータの解析を進め充実した大学院生活を送っていた私だったが、分子構造を精密に決定するということだけでなくて、分子が動的にその構造を変化させて、結合解離などの化学反応が起こる過程を研究できたらもっと面白いだろう、と思い始めていた。そして、光によって分子を電子的に励起した状態に励起する実験や、分子どうしを衝突させる実験ができないものかと考えていた。

ちょうどそのようなときに、朽津先生が研究室のセミナーで、「駒場の土屋先生から、実験で観測された電子遷移のスペクトルがとても複雑で、スペクトルの解析に関心のある大学院生が居たら、派遣してくれないかというお話があった。誰か希望する学生が居たら後で私のオフィスに来てください。」と仰った。願ってもない機会であると思った私は、セミナーが終わるとすぐに朽津教授室の扉をノックした。

土屋研究室に出入りするようになると、土屋先生は私に、スペクトルの解析だけでなくて、実験もやってみないかと仰った。土屋先生の研究室では、窒素レーザー励起の色素レーザーを用いて、超音速ジェットで真空中に生成した分子錯体などの電子励起状態を調べるためのレーザー誘起蛍光分光実験が行われていた。光で分子を電子励起状態に励起するという研究はとても魅力的で、私は本郷と駒場との間を行ったり来たりすることになった。

当時私は、一方で、マイクロ波分光で得られた分子回転のスペクトルを解析する過程で、そのスペクトルのピークが複雑に分裂する現象の解析に取り組んでいた。それは、核四重極相互作用による分裂というもので、核スピンが1以上の核種が分子内にあるときに、その核の位置で電子が作る電場勾配と核四重極が相互作用をすることによって分子の回転準位のエネルギーが分裂するという現象である。マイクロ波スペクトルに現れるピークの分裂パターンを解析するためには、核の位置における電場勾配テンソルを知る必要がある。しかし、実測のスペクトルに現れる分裂パターンだけでは、電場勾配テンソルを決めきることができないことも多い。信頼できる理論計算から電場勾配テンソルを予想することができればスペクトルの解析に役立つのだが、当時は、電子状態の理論計算によって電場勾配テンソルを求め、マイクロ波スペクトルに現れるピークの分裂を予測するという研究は行われていなかった。

その頃は、全国の大学や研究所の大型計算機センターにおいて、ユーザーが大規模計算を行うことができるようになり始めた頃であった。そして、大型計算機を使うことができれば、ab initio MO計算と呼ばれる非経験的分子軌道計算をGaussianなどの汎用プログラムを用いて行い、分子の電子基底状態のエネルギーや、分子の幾何学的構造を、実験から得られる情報を使わずに求めることができるようになっていた。

私は、朽津先生に、「電場勾配をab initio MO法で計算したいので、分子の電子状態の理論計算に詳しい先生を紹介していただけますか」とお願いをした。朽津先生は、分子科学研究所の諸熊奎治教授を紹介してくださった。さっそく私は岡崎の分子科学研究所に諸熊先生を訪ねた。そして、諸熊先生は、当時諸熊研で助手をしておられた加藤重樹先生に私の相手をするようにと伝えてくださった。私は電場勾配の計算ができるプログラムがあってそれを使えば計算がすぐにできるものと思っていた。しかし、電場勾配の計算ができる汎用プログラムは存在していなかった。加藤先生は、「まず、HONDOというプログラムがあるから、そのコードを読んで電場勾配を計算する部分を自分で作ってみなさい。分からないところがあったら聞きに来なさい。」と仰った。

実験データの解析のためにFORTRANのプログラムを書いたりすることはあったが、非常に長いHartree-Fock法のプログラムを自分で読み解くことになるとは思っていなかった。しかし、HONDOを読み進めていくと、プログラムの構造がとても分かりやすいものであることに気が付いた。数値積分のテクニックなども学びながら全体の構成が分かってしまうと、電場勾配を計算するためのサブルーチンを作ることはそれ程大変ではないことも分かった。実際にプログラムを完成させるまでには結構時間がかかってしまったが、電場勾配の計算ができるようになり、核四極子結合定数をab initio MO 法によって求め、実験で得られた定数と比較することができた。

当時、私は、駒場に行ったり、岡崎に行ったり、忙しい大学院生活を送っていた。実は、マイクロ波分光の実験研究のために、筑波研究学園都市にあった化学技術研究所にも度々伺っていた。よく時間のやりくりができたものだと今更ながら思うが、忙しくて大変だったという記憶が無い。新しいことに日々出会い、自分の理解が深まることの醍醐味を味わい、とても楽しく大学院の時代を送ることができた。そうこうしているうちに、私は大学院博士課程の途中で土屋先生の研究室の助手に採用していただいて、研究者としての道を歩み始めることになった。

助手になって間もないころ、私は多原子分子の高振動励起状態を電子遷移を利用した分光学的な手法によって明らかにするという仕事に取り組んでいた。分散蛍光スペクトルと誘導放出スペクトルの情報から、高振動励起状態におけるFermi共鳴やDarling-Dennison共鳴が如何に分子内の振動エネルギーの再分配に関与するかを示した。ある時、相模中央化学研究所にオフィスをお持ちであった森野米三先生を訪問する機会があった。森野先生は朽津先生の指導教員であった方で、当時すでにご高齢だった。訪問後、私は森野先生とご一緒に小田急線の新宿行きの急行に乗った。道中、私が森野先生に、私の多原子分子の高振動励起状態についての研究のお話をしていたところ、森野先生は「君、それは君が世界で初めて見つけたのかね?」とお聞きになった。「そうです。」とお答えすると森野先生はとても嬉しそうな表情で、「やったね!」と喜んでくださった。大きなお声だったので、同じ車両の他の乗客の方々が我々二人に注目することになったのだが、私は森野先生からいただいたお励ましに感激していた。私は、研究に情熱を持つ者どうしは、世代を超えて通じ合うものなのだと感じていた。

これまで私は、研究を進める過程で、先輩方から実に多くのことを学ばせていただいた。私の研究を進めたいという気持ちを受け止めてくださってご指導をしてくださった先輩方との出会いは、私にとって貴重なものばかりだった。その先輩方は、皆、情熱をもって研究に取り組んでおられた。そして、同じように情熱をもって研究を進めようとしている私に温かいガイダンスと支援をしてくださった。

皆さんの中には、将来、研究者の道を歩む人もいることと思う。皆さんには新しい研究領域の開拓に果敢にチャレンジして欲しい。先輩の研究者たちは皆、皆さんの味方だ。皆さんに様々なチャンスを用意して、皆さんを励まし、皆さんがそのチャンスをものにすることを期待している。皆さんが新しい発見をすれば、そして、新しい成果を挙げれば、それは我々先輩の研究者たちにとって大きな喜びである。研究に情熱を持ち互いに励まし合う人々の集まりが研究者コミュニティーである。皆さんが、我々のコミュニティーの仲間になってくれる日が一日も早く来ることを待ち望んでいる。

(令和3年1月30日)

このメッセージの内容は「現代化学」誌、第600巻、2021年3月号、52 - 54ページに「フロンティアへの出帆」として掲載されている。